怒りを観察する Observing Anger

「怒りを観察する」
ヴィパッサナー瞑想について書かれた初期仏教の経典サティパッターナ・スッタ(Satipatthana Sutta 念処経)には、ベトナム出身の僧侶ティク・ナット・ハン (Thich Nhat Hanh 1926-2022)による優れた解説書がある。その中の“Observing Anger”(怒りを観察する)という章で、著者は次のように記述している。怒りの本質を簡潔に表現した素晴らしい文章だと思う。
Our anger is rooted in our lack of understanding of ourselves and of the causes, deep-seated as well as immediate, which have brought about this unpleasant state of affairs. Anger is also rooted in desire, pride, agitation, and suspiciousness. Our method of dealing  with events as they arise reflects our state of understanding as well as our state of confusion. The chief roots of our anger are in ourselves. Our environment and other people are only secondary roots. 
”Transformation and Healing: sutra on the four establishments of mindfulness”

私たちの怒りは、自分自身への理解の欠如と、そのような不愉快な状況をもたらした直接かつ根深い原因への理解の欠如とに根ざしている。怒りはまた、欲望、プライド、動揺、猜疑心にも根ざしている。何か物事が起きたときの私たちの対処の仕方は、自身の混乱の程度だけでなく自身の理解の程度も反映している。怒りの主な根は自分自身の中にある。環境や他人は二次的な根にすぎない。

ハラリ氏の仏教の理解

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は「サピエンス全史」の中で、ゴータマ・ブッダ(以下ゴータマ)の思想について、次のように要約している。この要約は、初期仏教が伝えるゴータマの思想を正確かつ精緻に表現した秀逸なものである。

(ゴータマは)人間の苦悩の本質や原因、救済について六年にわたって瞑想した。そしてついに、苦しみは不運や社会的不正義、神の気まぐれによって生じるのではないことを悟った。苦しみは本人の心の振る舞いの様式から生じるのだった。  

 心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴータマの悟りだった。心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。痛みのような不快なものを経験したときには、これが非常に明白になる。痛みが続いているかぎり、私たちは不満で、何としてもその痛みをなくそうとする。だが、快いものを経験したときにさえ、私たちはけっして満足しない。その快さが消えはしないかと恐れたり、あるいは快さが増すことを望んだりする。

(中略)

そのため、どれほど偉い王であっても不安を抱え、たえず悲しみや苦悩から逃げ回り、より大きな喜びを永遠に追い求めて生きる定めにある。

 ゴータマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。じつは、悲しさの中には豊かさもありうる。喜びを経験しても、その喜びが長続きして強まることを渇愛しなければ、心の平穏を失うことなく喜びを感じ続ける。

 だが心に、渇愛することなく物事をあるがままに受け容れさせるにはどうしたらいいのか? どうすれば悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして、痛みを痛みとして受け容れられるのか? ゴータマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。この修行で心を鍛え、「私は何を経験していたいか?」ではなく「私は今何を経験しているか?」にもっぱら注意を向けさせる。このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない。

(中略)

仏教の伝承によると、ゴータマ自身は涅槃の境地に達し、苦しみから完全に解放されたという。その後、「 仏陀」と呼ばれるようになった。ブッダとは、「悟りを開いた人」を意味する。ブッダは誰もが苦しみから解放されるように、自分の発見を他の人々に説くのに残りの人生を捧げた。彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその法則だ。

ハラリ氏はその後の著書「21 Lessons」では、その巻末ちかくで「瞑想」についての章を設けて、氏がヴィパッサナー瞑想を知ったきっかけを語っていた。現在も毎朝2時間、ヴィパッサナー瞑想を行い、定期的にうセミナーにも参加しているという。

おそらくだが、彼はヴィパッサナー瞑想を習慣としているだけでなく、初期仏教経典もしっかりと読みこんで、ゴータマの思想に深い共感を持っているのではないだろうか。彼はユダヤ人で、しかもイスラエルユダヤ教系の大学で教鞭をとる立場なので、初期仏教への共感をはっきりとは言明していないけれども。

宮沢賢治『春と修羅』の序

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮沢賢治の詩集『春と修羅』の序
 
冒頭の3行はアニメ『銀河鉄道の夜』のエンディングで常田富士男の声で繰り返し朗読されており、また社会学見田宗介宮沢賢治論(『宮沢賢治: 存在の祭りの中へ』)でも分析されていて、強く印象に残っていたのだが、意味がいまいちよくわからないまま今日に至っていた。
初期仏教を学び始めて、ゴータマ・ブッダがこの世に生きとし生けるものすべての性質 natureと考えた3つの概念
無常 impermanence,
無我 selflessness,
因縁生起(縁起ともいう) interdependence
の詩的な表現に他ならないと気づいて、ゾクゾクするような感動を覚えた。

 

NHKこころの時代 宗教・人生 ヴィクトール・フランクル それでも人生には意味がある

先日、偶然にNHKこころの時代の再放送を目にした。テーマはヴィクトール・フランクル ゲストの勝田茅生さんはドイツでフランクルの直弟子に心理療法を学んだセラピストだった。かつて「夜と霧」や「それでも人生にイエスと言う」などのフランクルの著作を読んで、今回の番組でも反復された「どんな人生でも、生きる意味は必ずある」というフランクルのメッセージは、普遍的なものだと思ったが、今回、そのメッセージは不思議なくらい心に刺さらなかった。勝田さんが挙げたフランクルのセラピーの具体例(彼の著書のどれかで読んだ記憶がある)も説得力がなかった。僕の心の中で何かが変わったのだろうか。「生きることに意味がないと苦しむ状況」も「見方を変えることで新たに生きる意味を見出した状況」も、そのときのまわりの状況に依存して変わってしまうものであり(それはゴータマ・ブッダのいう「苦 」Duḥkhaそのものだ)、「生きる意味があるだろうか」とか「生きる意味がないのではないか」とか考えること自体が無意味だというのが、率直な思いだった。そんな考えが思い浮かんだのは、明らかに初期仏教を学び始めた影響だろう。ゴータマ・ブッダならば、こう言うかもしれない。生きる意味を求めること自体が無明からくる執着なのだと。