ハラリ氏の仏教の理解

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は「サピエンス全史」の中で、ゴータマ・ブッダ(以下ゴータマ)の思想について、次のように要約している。この要約は、初期仏教が伝えるゴータマの思想を正確かつ精緻に表現した秀逸なものである。

(ゴータマは)人間の苦悩の本質や原因、救済について六年にわたって瞑想した。そしてついに、苦しみは不運や社会的不正義、神の気まぐれによって生じるのではないことを悟った。苦しみは本人の心の振る舞いの様式から生じるのだった。  

 心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴータマの悟りだった。心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。痛みのような不快なものを経験したときには、これが非常に明白になる。痛みが続いているかぎり、私たちは不満で、何としてもその痛みをなくそうとする。だが、快いものを経験したときにさえ、私たちはけっして満足しない。その快さが消えはしないかと恐れたり、あるいは快さが増すことを望んだりする。

(中略)

そのため、どれほど偉い王であっても不安を抱え、たえず悲しみや苦悩から逃げ回り、より大きな喜びを永遠に追い求めて生きる定めにある。

 ゴータマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。じつは、悲しさの中には豊かさもありうる。喜びを経験しても、その喜びが長続きして強まることを渇愛しなければ、心の平穏を失うことなく喜びを感じ続ける。

 だが心に、渇愛することなく物事をあるがままに受け容れさせるにはどうしたらいいのか? どうすれば悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして、痛みを痛みとして受け容れられるのか? ゴータマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。この修行で心を鍛え、「私は何を経験していたいか?」ではなく「私は今何を経験しているか?」にもっぱら注意を向けさせる。このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない。

(中略)

仏教の伝承によると、ゴータマ自身は涅槃の境地に達し、苦しみから完全に解放されたという。その後、「 仏陀」と呼ばれるようになった。ブッダとは、「悟りを開いた人」を意味する。ブッダは誰もが苦しみから解放されるように、自分の発見を他の人々に説くのに残りの人生を捧げた。彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその法則だ。

ハラリ氏はその後の著書「21 Lessons」では、その巻末ちかくで「瞑想」についての章を設けて、氏がヴィパッサナー瞑想を知ったきっかけを語っていた。現在も毎朝2時間、ヴィパッサナー瞑想を行い、定期的にうセミナーにも参加しているという。

おそらくだが、彼はヴィパッサナー瞑想を習慣としているだけでなく、初期仏教経典もしっかりと読みこんで、ゴータマの思想に深い共感を持っているのではないだろうか。彼はユダヤ人で、しかもイスラエルユダヤ教系の大学で教鞭をとる立場なので、初期仏教への共感をはっきりとは言明していないけれども。